アメリカ政治の通常の姿

アメリカの権力の交代は、したがって伝統世界から見ればいかにも奇異で、しかもうさん臭い手続きのなかでおこなわれる。その結果として、一見奇妙なことが起こる。

たとえば、大統領は政党を母体として選挙戦を戦うが、その政党とはまったくの私的な集団にすぎない。その私的で闘争心に満ちた一種の利益集団が、選挙を境として「公の組織」に突然変身するわけである。ウィリアム・クリントン大統領(民主党)が、一九九四年の初秋にカリブ海の国ハイチの指導者の交代を迫った時、巨大な兵力をカリブ海に待機させながら政府特使団をハイチに派遣した。

世界の各国から、これはアメリカの軍事力をうしろにひかえさせて他国に圧力をかけるどいう砲艦外交だといわれたぐそのアメリカ政府特使団を形成していたのは民主党の面々であった。

ハイチにおもむいて大統領の意向を伝え、「圧力」をかけて当時のハイチの軍隊の指導者の退陣を実現したのは、ジミー・カーター元大統領(民主党)やサム・ナン議員(上院軍事委員会委員長・民主党)たちであった。元大統領などがかりだされ、いかにも「アメリカ」を代表する政府特使団ではあったが、その内実は大統領と同じ政党に属する有力者たちだったのである。

大統領職を中心とする国家の役職のことをパブリック・オフイスというが、その意味するところは、役職というのは個人的なものではなく公のものだということ
であろう。

まんべんなく国民生活のあらゆる側面を考慮し、公正無私に政治をおこなって初めて、そのパブリックという意味合いも生かされるということであろう。しかしアメリカの場合には、その役職をになうのは高貴な生まれの人物や、生まれながらにして帝王となるようにしつけられた人物ではなかった。

このような制度のなかでは、統治される側の「あきらめの気持ち」が入り込む余地はない。相手は、あらがい難い身分や特殊ないわれのある人物などではないからである。聯れ敬わなければならない必然性もない。

統治している側も、統治される側とさして変わらない人間だちなのである。そこで統治の任にあたっている者に対して、統治の内容にかんしての疑問がいとも簡単に生ずるのである。統治権者に対する疑念や不服従、代替の政策の提案などは、したがってアメリカの政治の世界ではごくあたり前のことである。

私たちは、合衆国議会が大統領のいうことを聞かなかったり、あるいは議会のなかで民主党共和党が激しくあらそう様子をしばしば見聞する。世論が沸騰して多様な意見が入り乱れ、時の政権が倒れそうになるくらい反対意見がうず巻くなかで、かろうじて政策が遂行されていくのを目撃する。

しかし、それがアメリカの政治の普通の姿なのである。このような国内の騒乱に似た状況が、アメリカの政治の正しい姿なのであり、それゆえにアメリカはかろうじて民主主義の制度を守り抜くことができているのである。