困ったときの「駆けつけ祖母」

教育関連雑誌の取材で会った三二歳の会社員は、「できれば子どもにはエリートの人生を歩ませたい」と熱く語った。そのために必要なことを尋ねると、「早くから子どもの適性を発見して、個性を伸ばしてやり、人とは違う感性を身につけさせる」と立派な持論を述べる。なるほど。子どもに何をさせれば適性が発見でき、感性が身につくのだろう。「それは、いろいろやらせてるうちにわかるでしょう」。これでは妻もイラつく。「いろいろって何? 早期教育、それとも習い事? 有名塾?お受験? あなたが子どもの勉強に付き添ったり指導してくれるの?」と、具体性のない夫にキレてしまうかもしれない。

もっと困るのは「上から目線」の正論で子育てを解説しようとする父親だ。行政主催の子育てフォーラムで一緒になった四〇代の大学教授は、堂々とした態度で言い切った。「子どもは伸び伸び育てるべきですよ。外で思いきり遊ばせたり、ときには友達と取っ組み合いのケンカでもさせて、人間性を育むのが大切なんです」ごもっともである。ではどこで、どんな友達と遊ばせるのか。今どき友達と遊ぶにも事前の「アポ」が必要だし、オートロックのマンションでは部屋番号を入力しなければ入れてもらえないし、たいていの友達は塾や習い事でスケジュールがいっぱいだ。うまく遊べたとしても、ケンカになってケガをさせたりすれば、相手の家から賠償金を請求されたりする。

するとこういう父親は、「社会」とか「政治」を持ち出し、「まったくむずかしい時代になったものだ。やはり社会全体が意識改革をしなくちゃいけませんね。もっと子どもに優しい世の中を作ってほしい。子どもはこの国の未来を背負っていくんですから。すべては政治の責任ですよ」などと言い出す。「単なる机上論ね」と冷笑する妻の姿が見えるようだ。社会や政治を持ち出す前に、自分の子どもを外に連れ出して思いきり駆けっこでもやってみたら。それが妻の心の声だろ概して夫たちは、「こうすべき」という指針は持っていても、それを実現するために「どうすればいいか」という具体策、現実的な視点に乏しい。だから妻に意見をしてもたちまち逆襲される。

「パパつてなんにもわかってないのね」、「まるで他人事みたい」、「要するに自分は高みの 見物?」、「言うだけだったら誰でも言えるわよ」。そんなふうに吐き捨てられ、最終的には「もういいわ、子どものことは私か決める」と切り捨てられるのだ。あわてて夫が具体策を提案してももう遅い。夫の考えなど待たずに、妻が決めたスケジュール、妻の考えに沿った子育て、妻のこだわりで作られた部屋、そんな毎日ができあがっていく。夫はアテにならないし、アテにしても役には立だない。そう割り切った妻が孤独になるかと言えばそうでもない。もちろんひとりで子育てを担い、追い詰められる妻も少なくないが、今どきの若い母親は夫よりもっと協力的、かつ心おきなく甘えられる人材と資材をしっかり確保している。それは実家だ。

最近の妻たちは、自分の実家を「実家」、そして夫側の実家を「義実家」と言う。自分の両親は「両親」だが、夫の両親は「義両親」。自分の親族は「親族」だが、夫の親族は「婚族」と呼ぶ人もいる。むろん表現方法が違うだけでなく、気持ちの上での温度差、双方の親への距離感があきらかに違う。妻は何かにつけて自分の実家を優先し、また自分の両親への依存度が高い。それも以前のように、「困ったことがあったら実家に帰る」だけでなく、「何かにつけて実家の母を呼びつける」という形が増えてきた。