史上最長の平成景気でも下がらなかった自殺率

一九九九年に入ると、物価下落がより鮮明となり、景気はどん底であった。頑なにデフレを容認していた日銀も、政府からの要請にしぶしぶ応じて、同年二月、コールレートの目標水準をゼロ%とするゼロ金利政策をとるにいたる。けれども、日銀自身がその政策に乗り気でなく、日銀の幹部が、ゼロ金利政策の効果を疑問視する発言をするというありさまだった。本来ならば、デフレからインフレへの転換を強くアピールし、それによって市場のインフレ期待を高めることが、デフレからの脱却には不可欠であるのだが、逆のアナウンスメントをすることは、最初からその効果を削いでしまう結果になった。

そもそも金利が低下した状況では、いわゆる流動性のワナと呼ばれる状態が生じ、政策金利をゼロにしても、景気を刺激する効果は乏しいのである。金利はゼロ以下に下からないが、物を買っても投資をしても値下がりしてしまう状況では、見えない金利がかかっているのと同じことになる。しかも、金利がゼロと言っても、それは銀行が日銀から借りる金利のことであり、個人や企業が実際に銀行から借りるときには、それに3%くらいの利ザヤが上乗せされた金利が適用される。金を借りてまで、設備投資や消費をしようという気にはならない。

それでも、ゼロ金利政策の成果は徐々に表れ始め、翌二〇〇〇年には、実質成長率がプラスに転じるところまで回復した。当初は不人気でリーダーシップに乏しいとみられていた小渕首相だが、その後、政治力を発揮し、自由党との連立などにより次第に政権を安定させた。アメリカから波及したITバブルが、一九九九年から株式市場を賑わせたこともあり、久しぶりに景気のいい話が巷を沸かせた。だが、四月初めに小渕首相が脳梗塞に倒れ、森内閣に代わった直後に、ITバブルが崩壊し始め、二万円の高値をつけた株価は、急落に次ぐ急落を重ねることになる。ところが、日銀は、八月にゼロ金利政策を解除するという、およそ逆療法に出るのである。政府は強く反対したが、日銀は我を通し、ゼロ金利政策解除を強行する。

そもそもITバブル景気に浮かれていたときでさえも、物価の下落が続いており、デフレを脱していなかったのだ。IT景気といっても、その恩恵にあずかったのは、一握りの人たちだけで、庶民にその実感はまるでなかった。それを裏付けるように、自殺者の数はわずかに減少したもののほぼ横ばいで、三万人を超えたままだった。ゼロ金利政策の解除は、雲行きが怪しくなりかけていた景気を急降下させることになる。二〇〇一年に入ると、成長率は大きくマイナスに落ち込み、物価の下落も加速した。デフレ不況が鮮明になってきたのである。あわてて日銀は、再び公定歩合を三度にわたって引き下げ、ゼロ金利に戻したうえ、量的緩和政策に踏み切る。量的緩和政策は、日銀当座預金残高を増やすことで、マネタリーベースを増加させ、市中への資金供給が増えやすくするものである。しかし、その規模は、当座預金残高で五兆〜六兆円、元々の水準より一兆〜二兆円を積み増しただけの言い訳のようなものであった。

そんな小手先の技をあざ笑うかの如く、景気後退とデフレの進行は続いた。そうした最中の二〇〇一年四月に誕生したのが、小泉政権であった。小泉政権では、構造改革が大きなテーマとして掲げられ、ODAや公共投資などを中心に歳出の削減が図られた。「小さな政府」と規制緩和による自由競争の重視という路線が進められることとなった。政権発足後、期待感から値を戻しかけた株価も、七月以降下げ続け、十月には一万円を割り込んだ。二〇〇一年十二月に、日銀は重い腰を上げて、量的緩和の規模を大幅に拡大し、当座預金残高目標を十兆〜十五兆円とした。翌春に株価は一旦一万二千円台まで戻したが、七月には再び一万円割れとなり、さらに下げ続けた。日銀は、十月に、当座預金目標残高を、十五兆〜二十兆円に引き上げた。だが、株価は下げ続け、二〇〇三年四月には、とうとう平均株価が八千円割れという事態を迎える。