何が沖縄を変えたのか

沖縄には地図を読めない人が多いのではないかと思ったりするが、それにしても、知らないと言えばいいのに、なぜ教えてくれるのだろう。ちょっと話がそれるが、京都では他家を訪ねるときも、茶を飲むときも食べるときも、うんざりするほど細かい作法がある。京都という小さな町で、十人十色の人間が大勢暮らせば、何かにつけてギクシャクする。ちょっとした行き違いが、切った張ったの大喧嘩になりかねない。作法はそれを避けるために、いわば潤滑油のようなものだ、とある茶人から聞いたことがある。沖縄もそれと同じで、小さな島に大勢の人が暮らし、地縁血縁でしっかり結ばれているから、どこかでギクシヤクすればネットワークにひびが入りかねない。ひいては地域社会が壊れるきっかけにもなる。そこで沖縄人は京都人とは逆に、テーゲー(いい加減)というルールを潤滑油にしたのではないだろうか、と私は勝手に妄想している。

テーゲーも京都の作法も、そこに住む人ができるだけ摩擦を起こさないようにと生み出したものなのだと思う。「沖縄に産業が生まれないのは、彼らが怠け者だからだ」とは、よく聞くセリフだ。私も『ナツコ』の冒頭で、〈沖縄には陽気さの中にどこか自信を失った、覇気のない人たちがあふれている〉ように見えると書いたから、そう思う人がいて不思議ではない。私はその理由として、〈「ウチナー世」がなかったことの喪失感〉を挙げたが、今はそれに加え、敗戦後の「アメリカ世」から復帰後の「ヤマト世」へと、時代の流れの中で沖縄人が変容したのではないかと思っている。

昔から沖縄は、今ほど依存体質だったわけではなかった。敗戦後から五二年頃まで、沖縄は「大密貿易時代」、あるいは「ケーキ(景気)時代」と言われたほど密貿易が栄えた。誰の支配も受けず、誰の手も借りず、度胸と才覚でアメリカの占領軍に対抗しながら生き抜いた時代である。私はこれこそ「ウチナー世」だったと思っている。突然変異的にこういう時代があらわれたのではない。沖縄には昔からこういう血が脈々と流れていたのである。それが占領政策のすき間を縫って噴き出したのだ。しかし、沖縄を占領した米軍は、朝鮮戦争の前年あたりから、共産主義を封じ込めるために本格的な基地建設に乗り出した。

ただ、この小さな島に当時の金で数千万ドルも投下したら、激しいインフレになる。そうなれば、基地建設そのものが頓挫しかねない。そこで考え出されたのが、沖縄のインフレを抑えると同時に、日本の経済の復興にも役立つ一石二鳥の巧妙な作戦だった。当時の沖縄には、米軍発行の「B型軍票(B円)」が流通していた。日本円とは一対一の等価交換だったが、一九五〇年にこれを一対三にしたのである。日本から輸入する商品がいきなり三分の一の値段になったのだから、黙っていても日本からの輸入は激増した。アメリカは基地建設に莫大なドルを投下し、このドルで日本から生活物資を輸入させれば、ドルはアメリカ・沖縄・日本のトライアングルを循環する。沖縄側からすれば、生産に励むより、輸入するだけで儲かるのだから、輸入業者が増えるのは当然で、実際、夥しい数のミニ商社が設立された。

モノを生産して輸出するには、付加価値をつけなければ売れない。そのための努力が新しい産業を生み出すきっかけになるが、輸入して転売するだけで儲かるなら、誰もリスクを負ってまで企業を興そうとは思わないだろう。こうして海の民の果敢な精神は、時間とともに雲散していったに違いない。公共事業のために何でもカネがらみになり人情味が失われた。大田知事時代に、「わしたショップ」という、沖縄県産品のアンテナショップを東京に出店させた男がいる。宮城広岩さんといい、東京に出店する物産店は赤字が当然と思われていたのに、黒字経営にしたことで注目された人だ。私は○二年頃にお会いしたが、そのときこんなエピソードを語られた。