裁判の翌日に釈放

私は、そのリンチを受けて、身体が苦しいからではなく、情けなくて、ボロボロ泣いた。その後、外地に送られて、終戦後は、戦犯容疑者として、サイゴンで監獄に拘置され、戦犯裁判を受けた。判決は禁釧八ヶ月であった、戦犯裁判だから、八ヶ月が八年であっても仕方がない。八ヶ月で、未決通算で、裁判の糾日釈放された。幸運であった。

釈放されたとき、鉄格にすがりついて、私たちを見送る獄友たちに、元気でな、と言いながら手を振り、私はボロボロ泣いた。この泣きは、自己憐判の混じった安堵の泣き、である。思わぬ好結果は、女子プロゴルファーに限らず、涙腺を刺激するもののようだ。それに、人に涙もろい人、もろくない人があるように、一人の人についても、もろい時期、もろくないというのがあるようだ。

私の場合は、サイゴンの監獄から釈放され、その半年後の昭和二十一年の晩秋に帰国、復帰したのであったが、帰国直後の数年間は、涙もろかった。軍隊に十年余り拘束され、外地には、まる四年余りいた。あんな経験は、しようと思ってもできるものではない。戦場も経験した。死にそこないもした。それを潜って来て私は、自分の哀れだけでなく、他人の哀れにも衝早を受け、感傷過多になっていたところがあった。

あの感傷過多は、戦争ボケと討ってもいいようなものであったかも知れない。幸運にも生きて戦場から還って来ることができた。監獄にほうりこまれるという、思いもしなかったような目にもあったが、裁判の翌日に釈放されたし、ほとんど諦めていて、しかし、その日が来るのを夢みていた軍隊からの釈放も実現した。幸運であった。戦争中は、思いもかけぬ突拍子もない目に追うことは普通であった。

シベリアに連行され就労させられるのも、子供を置き去りにして満洲をさまようのも、無実だのに有罪といわれ獄につながれるのも、肉親を失うのも、自分が死ぬのも、平和な社会では途方もないような大事件が、事件ではなかった。特異なことが多過ぎると、特異なことが普通であり、普通のことが特異なことになるのである。そういう状況の中で、私は何を頼りに生きていけばいいのかわからず、よろめきながら、やたらに感傷的な思いにすがっていたのであろう。生きて還って来たことも、知人や友人が健在であることも、ましてその知人や友人にめぐり会うことも、すべて大事件であったのだ。