経営不安説の払拭をはかる

日債銀と政界との関係は、同行の破綻の時まで続いた。その象徴的な例が、97年2月5日、三塚博大蔵大臣(当時)が記者会見の席上、わざわざ日債銀の名前を上げて、信用不安解消のための「口先介入」を行なったことだった。「日債銀は経営改善に全力を挙げ、実効が上がっているということだから、破綻するなどということは全くあり得ない。日銀と大蔵省を信用してほしい」蔵相が個別行の経営問題を公に口にし、経営不安説の払拭を図るなど前代未聞の話だった。

口先介入は続いた。今度は、同行の主力商品「金融債」の保護についてである。「銀行が破綻しても、預金は5年間は、政府が約束しているのだから必ず全額戻る。公的資金の導入もあり得る。金融債も同様だ」公的資金導入問題が論議されていたさなかの97年2月12日、自民党山崎拓政調会長(当時)がこう断言した。信用不安から日債銀の発行した金融債の流通利回りが高騰(債権価格の下落)し、日本興業銀行債との格差が際立ち苦境に立っていた日債銀への明らかな援護射撃だった。

確かに預金は、預金保険機構によって保護されることになっていた。それは預金が預金保険の保険料を支払うことによる当然の権利だった。しかし、金融債は違う。預金保険の保険料を支払わない分、高い利回りが得られることが売り物の商品であり、また税制面でも優遇された商品だ。そんな金融債を、法の解釈をねじ曲げて保護するというのである。それは自らが顧客として保有する金融債を守りたいという政治家たちの自己保身の現れであったかもしれない。

だが結果としてこの発言により、日債銀の既発債の流通利回りは低下。少なくとも「金融債の売上低下から資金繰り破綻へ」という市場の連想を一時的に断ち切り、同行の破綻を先送りすることにつながった。政治家が、この流れを理解していない分けがなかった。さらに、98年初頭、竹下元首相が日債銀救済を求めて、複数の金融機関へ合併を打診してまわったという話も、今日では定説になりつつある。先に紹介した頴川の練言を振り返れば充分に頷ける話である。

まさに「揺りかごから墓場まで」、日債銀は政治の色に染まっていた。勝田龍夫と頴川史郎、2人のドンが築いた人脈こそが、ある意味で確たる目的も与えられずに誕生した日債銀の、唯一の存在理由だったかもしれない。「永田町の隠し金庫」の中身は、残念ながらいまだ見えないが、その闇は限りなく深い。金融監督庁は、まさに日本という社会システムの構造的な闇に詫をふるったともいえるのだ。