国際機関創設のための連合国会議

拒否権についても四国の同意を得たが、その具体的な範囲については、四五年二月のヤルタ会談に決着が持ち越されることになった。米、英、旧ソ連首脳によるこのヤルタ会談では、拒否権は手続き問題には適用しないことなどが決められ、四月二十五日から六月二十六日まで、サンフランシスコで開かれた「国際機関創設のための連合国会議」に最終提案が持ち込まれた。このサンフランシスコ会議では、世界五十力国の代表が最終日に国連憲章に調印した。またポーランドは出席しなかったが、後に調印したため、「憲章メンバー」は五十一力国に上った。国連が国際機関として正式に発足したのは、五常任理事国と、その他の調印国の過半数が批准した十月二十四日だった。

このサンフランシスコ会議では、中小国が中心となって、草案に幾つかの重要な修正を加えた点が注目される。一つは、前述したように、安保理に対して総会の権限を強化した点であり、もう一つは、憲章第五一条に、「安保理か国際の平和および安全の維持に必要な措置を取るまでの間、個別的または集団的自衛権の固有の権利を害するものではない」という文言を付け加えた点だった。憲章は当初、互いに武力行使を禁じ、違反者に共同で対処するという「集団的安全保障」の構想に立っていたが、ここで重要な例外が認められ、その後の国連の変貌の伏線となって行った。当時の議論は、地域的な取り決めを重視し、「集団的安全保障」を発動するまでの暫定措置として例外を認めるという趣旨だったが、その後の冷戦で安保理の機能が麻蝉すると、むしろこの「個別的・集団的自衛権」によって、東西の軍事条約が根拠づけられ、武力行使が正当化されるようになったからだ。